交流分析から考える人間関係の構造①【自我状態】

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みなさんこんにちは、橋本翔太オフィス 心理士スタッフの田中です。

心が苦しくなったり、生きづらさを感じたりする理由のひとつに、「自分という人間は、〇〇だ」と、自分で自分を決めつけてしまうことがあります。

例えばよくあるものとして、

「自分は何をやってもうまくいかない」
「自分が人から愛されるはずがない」
「自分はここにいてはいけない存在(生まれてきてはいけない存在)」

といったような、能力の否定、繋がりの否定、存在の否定を用いて、「これが自分なんだ」と無意識の内に思い込んでしまうのです。

ですが実際は、全くそんなことはないはずです。そして、心のどこかで「いや、そんなことはない」と感じている自分も、きっといるのではないでしょうか。

恐ろしいことに「自分という人間は、〇〇だ」という決めつけは、それが自分の”全て”であると錯覚させます。全てであると錯覚してしまうと、改善の余地は閉ざされ、自信も湧かず、希望の光も届かない。だからこそ、心がどんどん苦しくなってしまうのです。

ですが、「そんなことはない」と思える自分や視点が確立し正常に機能すれば、その心の苦しさに少しの余白が生まれてきます。反射的に「自分という人間は、〇〇だ」という決めつけに反発して「そんなことはない」と自分に言い聞かせるのではなく、「本当に自分は〇〇な人間なのだろうか?」といったような、冷静に心の動きを観察できる自分や視点が、心の回復にとても役立つのです。

さて、そういった視点を提供してくれる心理学の理論があります。(理論というと堅苦しいので、考え方と捉えてもらえればよいですね。)以前私が書いた心理コラムで、交流分析の【ストローク】について解説したことがありましたが、今回もその交流分析の考え方の一つです。

ちょっと言葉は難しいですが、今回は交流分析の【自我状態】について解説いたします。

自我状態の構造

【自我状態】というのはわかりやすく言い換えると、「自分の心の状態とその反応パターン」です。そして、大きく分類すると交流分析ではその心の状態には3つのカテゴリーがあるとされています。

・親(Parent = P)
・成人(Adult= A)
・子ども(Child = C)

英語表記の頭文字をとり、PAC(ピー・エ・ーシー)と呼びますが、心の中には基本的にこの3つの心の状態のカテゴリーがあり、時と場合に応じてこれらの自我状態が意識的にも無意識的にも変化する、という考え方です。

これまでの自分の人生を振り返ってみると、「子どもっぽい態度」「親のような思考」「冷静で現実的な大人っぽさ」など、その場面や状況に応じて、異なった心の状態であったことに気付くと思います。四六時中、どんな刺激に触れたとしても、心の状態が常に一定であるということは基本的にはあり得ず、心の状態は変化、つまり、「親」、「成人」、「子ども」という自我状態を無意識に行き来しているのです。

そして、たまたま一つ大きなミスをしてしまった時に「自分は何をやってもうまくいかない人間だ」、好きな人から振られてしまった時に「自分はどうせ人から愛されない存在だ」、大事な人に迷惑をかけてしまった時に「自分は生まれてこなければよかったんだ」と感じて、それを「自分の全て」と決めつけてしまうのはやはり誤解なわけです。実際には、1つの自我状態がパターン通りに過剰に反応しているだけであり、他の2つの自我状態はそうは思っていないのです。

では、この3つの自我状態が具体的にどんな心の状態なのかを、順番に見ていきましょう。

親(Parent = P)の自我状態

親(Parent = P)の自我状態とは、自分の心の状態が親や養育者などの大人から取り入れた思考、感情、行動、態度、価値観などに基づいている反応パターンです。この親の自我状態にはさらに分けて2つのカテゴリーがあるとされ、養育的な親(Nurturing Parent = NP)と批判的な親(Critical Parent = CP)があります。

まず、養育的な親(Nurturing Parent = NP)というのは、イメージで言えば、アニメ鬼滅の刃に出てくる「お館様」でしょうか。誰に対しても受容的・共感的で、包み込むような深い優しさが感じられます。お館様は、人をとても大事に思う心が全身から滲み出ているようなキャラクターですよね。現実の人物でイメージするならば、「マザーテレサ」がわかりやすいかと思います。彼女もとても献身的であり、利他的な人物であったと言われています。極端なイメージかもしれませんが、わかりやすくお伝えするとこういった人物像が養育的な親にあたります。

一方で、批判的な親(Critical Parent = CP)はというと、アニメドラえもんののび太が学校のテストで悪い点を取ったり、遊んでばかりいると、のび太ママにきつく怒られている場面がありますが、その時の「のび太を怒っているのび太ママ」の状態が批判的な親のイメージです。厳しさ、否定的、条件付き、支配的、指示的といったような、子どもや相手を受け入れない思考、感情、行動、態度、価値観が特徴です。

この批判的な親(CP)の自我状態に乗っ取られてしまっていると、身近な例でいえば、いわゆる「完璧主義」に陥ってしまいます。心の中には常にのび太ママが見張っていて、ちょっとでもミスをしてしまったり、自由に遊びたいと思っても、のび太ママがそれを許しません。「もっと頑張りなさい」「負けるな」「早くしなさい」「ちゃんとしなさい」「お前はダメだ」といったような言葉を浴びせてくるわけですが、こういった批判や否定は自分に対してのみならず、他人や世間を見る目にも反映されていってしまいます。

ここまで読むと、「養育的な親は良い」「批判的な親は悪い」と一義的に思ってしまうかもしれませんが、実はそういうことではありません。養育的な親にも短所があり、批判的な親にも長所があります。本当に危険な人物を養育的な親として無条件に受け入れてしまったら危険にさらされることもあるでしょう。逆に、批判的な親がある程度自分に厳しく働けば、大きな成果につながることもあります。つまり大切なのは、良し悪しで決めつけるのではなく、それぞれの自我状態が「必要な場面で、必要なだけ」機能することなのです。

子ども(Child)の自我状態

次に、子ども(Child = C)の自我状態とは、自分が子どもの頃に身につけた反応パターンを再演している時の自我状態です。小さい頃は外が暗くなる前にお家に帰ることがお決まりだった人が、親元を離れて自立したのにも関わらず、夕暮れになると子どもの頃に感じていた「早く帰らなきゃ」と焦りを感じるのは、その瞬間は子どもの自我状態にあるからです。

さて、親の自我状態と同じく、子どもの自我状態にも大きく分けて2つのカテゴリーがあります。それは、自由な子ども(Free Child = FC)と適応した子ども(Adapted Child = AC)といわれてます。

自由な子ども(Free Child = FC)は言葉の通りなのですが、アニメDr. スランプの「アラレちゃん」(天真爛漫、好奇心旺盛、元気いっぱいの女の子ロボット)が、まさに自由な子どものイメージにあたります。好きなことに夢中になったり、自由にのびのびと楽しんでいるような自我状態で、自発的に行動するのが特徴です。自発的というのは、義務や「べき思考」で行動しているのではなく、好きだからやる、やりたいからやる、というような本能的な欲求に近いものです。また、喜怒哀楽の表現も素直で直接的で、我慢や迎合することなく、自分が感じたことをそのまま受け入れて表現することができます。

もう一つのカテゴリーは、適応した子ども(Adapted Child = AC)で、簡単にいえば自由な子どもの真逆となります。状況や相手の顔色に合わせた我慢や迎合がデフォルトで、当然そこには自発性はなく従順で言いなりです。アニメエヴァンゲリオンの「綾波レイ」がイメージに近いでしょう。綾波レイは青髪ショートボブの可愛らしい女の子なのですが、表情はいつもポーカーフェイスで、上からの指示や命令にとても従順です。感情の起伏も見られず、自分の意思や好奇心も持ち合わせていないかのようなキャラクターです。綾波レイほどの機械的な適応までといかなくとも、自分の気持ちや意思をかき消してなんとか自分の生きる環境に適応してきた役割を担っていたのは、この自我状態であると考えられます。

ちなみに、適応した子どもの自我状態が全て我慢や迎合かというと、実はそうではありません。例えば、「ヤンキー」などと呼ばれる不良少年、非行少年も適応した子どもの自我状態の一種です。ノーヘルメットに速度超過のバイクを走らせ、一見すると好き勝手で自由に生きているように思えるかもしれませんが、積み重なった我慢や迎合の反動が「非行」という形で表面化しているものであると考えると、これは自由な子どもではなく、適応した子どもとして分類されます。

求めていた承認や愛情が、我慢や迎合では得ることができなかったがために、その真逆の迷惑行為を起こすことによってその欲求をかき消そうと、あるいは、異なった形としてでも得よう(心理学用語で、【反動形成】と呼びます)とした結果が表面化した形が非行なのです。とすると、焦点は得られなかった承認や愛情に未だにあるわけで、それはつまり、適応した子どもの自我状態のままである裏付けとなります。(※非行に至る全ての原因や背景が、反動形成や適応した子どもの自我状態によるものではありません。)

成人(Adult)の自我状態

最後は、成人(Adult)の自我状態です。大人の自我状態とも言ったりしますが、これはイメージをあげるならば名探偵コナンの「推理している時の工藤新一(コナンくん)」です。推理している時の工藤新一は、現実的で、論理的です。客観的に物事を捉え、冷静に判断することができる成人の自我状態にあるといえます。

たとえば、友人と食事をしていたら、急に友人が不機嫌になったとします。その時に、批判的な親の自我状態が反応すれば、「急に不機嫌になるなんてみっともないし、一緒にいて恥ずかしい」などと嫌悪感を感じることがあるかもしれません。適応した子どもの自我状態が反応すれば「私が不機嫌にさせてしまった。どうしよう。私がいけないんだ。」と焦りや不安を強く感じてしまうこともあるでしょう。しかし、推理する工藤新一(成人の自我状態)であれば、「急にどうしたんだろう?何があったのかな。まずは話を聴いて情報を集めてみよう。」と心が乱れることなく(多少乱れても冷静さや客観視はできている)、自然と今ある状況の分析や対応を考えることをするでしょう。

このように、成人の自我状態は現実を正確に捉えようするため、問題解決にも適しています。親や子どもの自我状態が過剰な反応を起こした時には、「いやいや、一緒にいて恥ずかしいとか、自分が不機嫌にさせてしまったとか、それは決めつけじゃないのかな。」と、この成人の自我状態が心の調整役となって機能する役割を担っているんですね。

そして、成人の自我状態が親や子どもの自我状態と大きく異なる点はもう一つあります。すでにお気づきの方もいらっしゃるかとは思いますが、自我状態によって参照している時間軸が異なっている点です。成人は「いまこの瞬間」を見ており、親や子どもは「過去」を見ています。親や子どもの自我状態は、過去に反応したパターンを再び呼び起こしているため、その過去が苦しいものであればその苦しみは繰り返し体験されます。そうならないためにも、成人の自我状態が調整を働きます。

自我状態のまとめ

以上、ざっくりとではありますが、5つのカテゴリーの自我状態について解説いたしました。最後に改めて自我状態について簡単にまとめます。イメージで持ち帰っていただくと印象に残るかと思います。

・親の自我状態(Parent)
 - 養育的な親(Nurturing Parent = NP) → 鬼滅の刃 「お館様」、「マザーテレサ」
 - 批判的な親(Critical Parent = CP) → ドラえもん 「のび太のママ(のび太を怒っている時)」

・子どもの自我状態(Child)
 - 自由な子ども(Free Child = FC) → Dr. スランプ 「アラレちゃん」
 - 適応した子ども(Adapted Child = AC) → エヴァンゲリオン「綾波レイ」、「ヤンキー」

・成人の自我状態(Adult) → 名探偵コナン 「工藤新一(推理している時)」

自分という一人の人間の中には、様々な自我状態が存在していて、それらは時と場合に応じて行き来しています。一つの自我状態が過剰に働き、長い間ずっと心を支配されてしまっていると、その自我状態が「自分の全て」であると思ってしまいます。でも本当は全くそんなことはなく、ただただその自我状態の働きが強いだけであって、誰にでも全ての自我状態があり、それらをうまく使い分ける能力をちゃんと持っています。

まずはそのことを知っていただきたく、交流分析の【自我状態】を解説させていただきました。自我状態の概念を知っているだけでも、「今の自分はのび太ママに偏っているから、マザーテレサとして感じるならばどんな言葉を自分にかけられるかな」などと、自分の心の使い方を工夫できる余地が生まれます。

そして、この自我状態の話は交流分析における入り口です。次回のコラムでは、これらの自我状態が人間関係においてどういった交流(関わり)をもたらすのかを解説していく予定です。交流の法則などもあり、知っておくだけで日常の人間関係に活かせる術にもなり得ますので、是非またお読み頂けると嬉しいです。

心理士スタッフ 田中